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秘密基地

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今では「すっかり」様変わり!、町で宅地分譲します。

《天の邪鬼》の続き
作るって言って思い出したんが、子供の間ではよく有った秘密基地だ。
従兄ん家のそばには“大店”桜○商店の廉場が有り〈蒟蒻干し〉の時季が終わると、そこらじゅうに空の俵が山高く積まれていたんだ。
昔は生芋の荷造りに俵が使われてたけど、現在では“ステンレス製”の大きな網のパレットで、ちょっと前までは?麻袋!。その前がワラ俵だ。
一袋60キロ位あって中身が入ってる時は、とっても大きく見えたワラ俵なんだけど・・・?
その空俵が“3m・4m”も高ーく積まれ倉庫一面に敷き詰められてたんで、倉庫の梁から飛び降りても痛くなかったんだよ?。
天井の梁に縄を縛りつけターザンの真似をしたり!空俵の山の中に空間を作って秘密の場所にもしてたんだ。
“うっかり?”その上を歩くとさ、落とし穴のように2〜3メートルも落ち事もあり、それがまた気持ちいんだねぇ!。
そんな秘密基地が町中に在ってさ、子供たちの絶好の遊び場だったんだ。
櫻○商店の他に、荻○商店、小○商店、中○商店、田○屋商店、など!など!。
小学校の周りはみーんな「蒟蒻原料商」だったんで、校庭から道を隔てればそこは全部“秘密基地!”毎日違う倉庫に忍び込んでは遊んでいたけど、番頭さんに見つかると物凄く怒られ“必死”で逃げたもんだ。
ある時!オイラの友達が《岡本屋》に忍び込んで見つかったらしく、オイラを迎えに来て連れてかれ、何を言うかと思ったら?
『信也もいるんだぃ!!』
1つ年上の“ずる賢い奴”が言ったら、番頭してた山ちゃん
『気をつけろぃ!、仕事をしてるから他行って遊べぇ!・・・』
そん時は怒られずに済むんでさ、皆にはその手を何度も使われたんだよねぇ。
*追記・「40年近く経てば、倉庫も朽ち果て“大店”自体も無くなって終いました!時代の流れですかねぇ・・?」

天の邪鬼

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『“いつでも勉強!”二宮金次郎を見習いなさい!』と、先生は言うけど?

前にも書いたけど、学校での勉強は嫌いだった話なんだ。
入学当初から算数と音楽は大嫌だった!
今でも数字が色々でて来ると目が回るんだ。
オイラは決まった数式に当てはめる事があまり好きじゃあない!
自分自身が割とアバウトで臨機応変に物事をやり過ごすタイプだから、
今でも時々『いい加減な奴!』って思われる事が有るんだ。
大概の授業ではそうだが、
『是々だから、答えはこれだ!』
と言うような問題は、物を決め付けてる様で納得できないんさ。
例えば
『私のカゴには林檎が3ヶあります、弟のカゴには林檎が2ヶあります。合わせて何ヶ?』
答えは決まって5ヶ!
“おかしい?”と思う自分が変なのかな?
『もしかしたら答えは4ヶかも?』ってね!
弟は2ヶとも、半分づつ食べてたかも知れないし、
自分のカゴは勘違いで最初から2ヶしか無かったかも知れない事もあるからだ。
『答えなんて色々有るから、決めつけなくてもいいじゃん!』
なぁんて思っていた“天の邪鬼”の子供だったね。
反対に“雑学”のどうでもいい様な事は大好きだった!
大人になった今もそれは変らない。
あと図画工作など、後からどうにでも手直しが出来る物も好きだ。
高学年でやった家庭科も意外と好きで特に刺繍は得意だったなぁ。
とにかく「物を作ったり!組み立てたり!」が性分に合ってて今も変らないんだなぁ。

オイラの子供の頃2

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《オイラの子供の頃》の続き

その当時は蒟蒻芋の天日干しもまだまだ盛んで、
仲買をしていた伯父さん家には2歳上と6歳上の従兄が居て
休みの日にはよく遊んでもらった。
時季が来ると廉場(れんば)と言って丸太で櫓(やぐら)を組み
蒟蒻芋の薄切りを天日に干したんだ。壮観だったねぇ!
蒟蒻芋をよく水洗いし、尖(せん)と呼ぶカンナで薄切りにしてさ、
シノ竹にごま油を塗り、一つ一つ丁寧に刺してくんだ。
それを15串程連ね、廉(れん)にして櫓に下げるんだけど、
30キロぐらい有り自分の体重より重いんだ。
一廉を組むとその頃10円だか15円でみんな競って組んでて、
近所の人の中には“一家総出”で来る家もあり
自分より小さい子もいっぱい居てとてもにぎやかだったんだ。
2歳上の従兄とは“競って?”て言うか遊びながら手伝い
何ヶ組んでもアノ“でっかい50円玉”1つ!
それを貰えばとっとと菓子を買って近くの山へ遊びに行っちゃったんだ。
2人で本家の岡本屋の廉場にもよく行ってさ、
そこだと何もしなくても“お寅婆さん”が100円!板垣退助の赤い札をくれた。
ここでも小遣いを貰えば『あとは用は無い!』とサッサと逃げだした。
下仁田の町内に“市”がたつ日には病気で寝てても“お寅婆さん”の枕元に行き、
2人で板垣退助の赤い札を何枚も貰ったんだ。
親不孝ならぬ「婆さん不幸!?」の孫2人だったんだ。
6歳上の従兄には色んな遊びを教わった。
《春》はすぐ前の山に登り遠くの山を眺めたり山菜取りをし
《夏》は近所の河原で水浴びをしり、捕った魚を焼いて食べたり
《秋》は竹を割って弓矢作り“獲物”を求めて山奥まで探検!
藤蔓(ふじづる)を見つけてはターザンの真似で枯れ葉の中に飛び込み英雄気取り?
が獲物は捕れた事がない!
《冬》に雪が降れば早速みんなでソリ作り。
「洗った蒟蒻芋の水切り箱」を壊して台座を作り、
割った竹を蝋燭の火で炙り先を曲げて蝋を塗り
台座に縄をつけて山奥の畑まで引っ張って行くんだゾロゾロと。
いつも10人以上で遊びみんなで競争したもんだ。
細い山道を踏みかためて『ボブスレーだ!』て真似して土手の下に落ちる奴もいたが、
そんな危険も、面白くって暗くなるまで夢中で遊んだもんだねぇ。
オイラは何時も一番年下だったけど!

オイラの子供の頃

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《今も夢はポルシェ!》の続き

*いつも可愛がってくれた“横浜”の叔母が撮った証拠写真*
子供の頃は何処かの食堂で御飯を食べるのは楽しみだった。
だから付いて行ったんだと思うが?・・・
よく考えたらウチは両親が別々に仕事をしていたから夜遅くまで手が空かない事もよくあり、
叔母たちが何か作ってくれる時はいんだけど、たいがい出前の店屋物!
近所の《いづみや》のラーメンか焼きそばだ。
《日昇軒》のかつ丼も親父が好きでよく食べた。このかつ丼は今でもたまに食べる。
《いづみや》の美味しい醤油ラーメンはもう食べられない。
店は閉め、おじさんは10年くらい前に亡くなったからだ。残念!
今でもウチに来る昔からのお客さんは、あのラーメンの話をする人が時々いるんだ。
前にも話したが、
その頃のパーマ屋は何時もお客さんがイッパイいて子供のオイラは、
腹が減ったり つまらなかったりして店で邪魔すると、
親たちには“怒られた”がお客さんたちは不憫に思ったのか?よく小遣いをもらった。
その頃の時代は景気も良かったんだね!
客の“オバサンさんたち”が競って小遣いをくれたんだ。
たまたま同業者の奥さんが一緒になると《ライバル心ムキ出し》で値もつり上がり小遣いも増えた。
盆や暮! 正月には金額も“グン”と上がりうれしかったんだ。
しかし何処にも遊びに連れてってもらった記憶が無いんだ!
熱くて長い夏休みなどは最悪で、
友達たちは「海に行ったり、山へ行ったり」泊まりで出かけてた!
が、うちは一切無い。
妹たちは小さかったのでどう思ったか分からないが、
オイラはつまらなくなると一人小遣いを貰って“上信電車”に乗り
1時間掛けて高崎まで一人で遊びに行ったもんだ。
当時はデパートなどほとんど無く、唯一5階か6階建ての“藤伍百貨店”を目標に探検気分で行った。
時間があると“観音山”の遊園地《フェァリーランド》まで1時間近くかけ歩いた事もある。
帰りの時間も考え遊んでいたのが小学1・2年の頃だったかなぁー?
もっとすごいのは、
そんな子供に電車賃を持たせて横浜の戸塚にいる叔母〈母の妹〉の所へ行かされた事だ。
誰も見送らづに家からオッパなされて、
下仁田駅から電車を乗り継ぎ半日掛けて探検のような旅だった。
親には簡単に乗り継ぎを教わったが覚られる訳も無く、
すべてがその場での自分の判断!
上信電車から高崎線の鈍行に乗り継ぎ、京浜東北線を見つけ何とか戸塚駅までたどり着き、
そこから30〜40分も歩いた。
途中電車に乗り間違えたり、上野駅では迷子になっても慌てず
見ず知らずの大人に聞いたりして何とかたどり着いた。
「今にして思えばすごい事をしたなぁー!」
と、我ながらつくづく感心するけども・・・?感心より何より、今の息子より小さかったんだ。
オイラには心配でそんな事はさせられねぇなぁ!
そんでもって叔母の家に着き玄関を開けると
『あらっ!まぁーっ!信也どうしたの?』
連絡が来ているはずの電話が無い!
叔母は驚くやら、呆れるやらで大笑い!!!
 オイラも呆れるすんげー親だった!

夢は今でもポルシェ!

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《新聞記事》の続き

車の免許を取ったばかりの頃の話。
仕事だったのか?ドライブで東京を走っていた時だったのか?忘れたんだけど
『何か見覚えのあるビルだなぁー?』
と、信号で見あげると、それは昔よく親父と来た《特許庁》のビルだったんだ。
その頃よく思ったのは
《さしみこんにゃく》で特許を取っとけば大金持ちになっていて、
今頃は“ポルシェ”に乗ってたかもしんねぇんになぁーて。

新聞記事

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《溶ける蒟蒻?》の続き

オイラの中の“テレビ”や“新聞”なんて縁のない別のとこの出来事!
まったく気にもした事の無い遠い世界で、その遠い世界の“テレビ”に映る父親の姿を、
なんか恥ずかしいやら、ドキドキしながら食入るように観たんだ。
学校で先生が新聞記事をみんなに読み聞かせてくれた時は、
嬉しいやら照れるやらで自分の事のようだった。
確か小学校1年か2年生だったと思うんだ?
その頃東京の“あるビル”によく連れていかれたんだが、長い時間待たされるのが嫌だった!
でも電車に乗れたり、自動車に乗れたり、どこかの食堂で美味しい御飯も食べられたから、
嫌々ながらも付いて行ったんを思い出す事があるんだ。
今に思えばそこは《特許庁》だったんだね。

溶ける蒟蒻?

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《新たな商品!》の続き

“新品種”火力乾燥の原料で蒟蒻を作ると!
知ちゃんの思った通りの見るからに涼しそうな真っ白に出来上がる!
生で食べられるように凝固剤を抑えると蒟蒻が固まらない!
今度は多めに使う、臭いがしたり黄色っぽくなる!
又減らして作る!
今度は日持ちがしない!
当時ウチの蒟蒻を置いてくれていた八百屋さんや肉屋さんから、
『知ちゃん蒟蒻が溶けたぞ!!悪りいけどちーっと見に来てくれィ』
そんなことの繰り返しだったんだと。
その頃の蒟蒻はまだ、バケツの水に石灰を溶いて裸のまま入れて置き、毎日水を換えていたんだ。
冷蔵庫などほとんど無く夏になるとバケツの水がお湯になってまた溶ける。
『出来そこないだから!』と、又水を換えてくれない。
悪循環の繰り返しだったんだと。
それでもめげずに毎日!毎日!試行錯誤で作りつづけてたんだって。
次第にお客さんからは
『ここんちの蒟蒻はうまい』
『佐々木の蒟蒻がいい』
『知ちゃんちの蒟蒻はねえんかい?』
評判が評判を呼びマスコミでも話題に!
『佐々木の蒟蒻は刺身でもくえるぞー』
『そのまんま食える蒟蒻だ!』
たちまち新聞や雑誌、テレビ局までもがオイラの家に来たのを今でも鮮明に覚えてる。

新たな商品!

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《一大革新の時》の続き

知ちゃんは“フッ”と、ひらめいたんだって!
『そうだ!凝固剤を極力減らしゃあ、アク抜きせずに生でそのまま食えるし、
冷やして食べりゃあ「これが本当の蒟蒻の刺身だ!」
ほんとに新商品になるかも知れねぇぞ、こりゃあ行けるぞ!』
その頃に出廻始めてた火力乾燥の原料が、大きなキッカケと助けになったんだ。
『火力粉は臭いが少ねぇて言うけど、それがいんじゃねえか?』
商品としての《さしみこんにゃく》 始まり始まりぃー!!!
古い文献や記事を覧ても、
「蒟蒻は、よく湯がいてから冷やし、食べれば美味」とか
「一度湯がいて、よく冷やし、刺身の様に食す」。
江戸時代・松尾芭蕉が詠んだ句に、
《蒟蒻の・さしみもすこし・梅の花》ともあるが!・・・?
この頃は一般に生芋から作るのが主流で蒟蒻芋独特の刺激は強烈。
アク(灰などの凝固剤)で刺激を押さえ、煮染など味付けをして食べていたんだ。
又、粉蒟蒻(精粉)から作る方法もあったが
水戸藩の専売品だった為原料入手が限られていて、
その精度も今とは比べ物にならない程の代物で作られていたために、
そのまま切ってすぐに食べられる現在の様な
本当の意味での、【さしみこんにゃく】ではなかったんだ。

一大革新の時

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《作っては捨て、作っては捨て!》の続き

その頃になると、一般家庭で食べる蒟蒻の原料にも
火力乾燥の粉が“徐々”にではあるが出回りはじめてきた。
だけど、まだまだ天日粉が主流で、皆
『火力粉は色も白いし芋の匂いもねえ、蒟蒻造りにはむかねえなあ!』と、
大半の人が言ってたんだと。
しかし親父は、これが必ずこれからの主流になると確信!
この原料を使って何か新しい商品は出来ない物かと?
 知ちゃんは取りも直さず《作っては捨てる!》趣味のような仕事を続けていたらしい。
その頃の蒟蒻屋と言えば
“板コンニャク”と“しらたき”で、おでんや鍋、煮〆など、寒い季節が主流の食べ物屋!
暖かくなる頃には消費も減り、《トコロテンやアイスキャンディー・豆腐》など
地域や店によって様々な物で、夏場の売り上げを確保していた。
『夏場にも蒟蒻が売れねかなぁ? 何か出来ねぇかなぁ〜』
知ちゃんは何時もそんなことを考えながら蒟蒻を造ってたんじゃぁねんかな?
 オイラたち子供の相手を忘れるほど夢中になって!

《仕事の鬼》の続き
何ヶ月?何年?そんな蒟蒻を造っていたのかな。

ある時まぐれか何かで、凄く旨い蒟蒻が出来ちゃって、
そんでもって日頃から気に掛けてくれてた下仁田の老舗・割烹旅館“常盤館”の女将さん(当時)が、
とても褒めてくれたんだって。
『知ちゃん!この蒟蒻ならどこへ持って行っても大丈夫だ』
と、太鼓判を押してくれたそうなんだ。
その言葉をきっかけ毎日はりきって造ったけど、
『うまく行かねんさぁ、たまたま良く出来ちゃったから、おんなじんは簡単には出来なかったなあ!』
そう言って、何時だったっか親父が話してくれた事があったなぁ。
と、書いてると結構会話をした親子のように思うかもしれないけど、
実はそんなに会話は無くて、こと仕事の話となると昔からほとんど無かったんだ。
こんな話をするようになったのも亡くなる数年前からだ。
病気がちになり入退院を繰り返し幾らか気弱になってからだと思う。
どんな思いで《作っては捨てる》のを繰り返していたんかと思うと、感心するやら呆れるやら。
それも俗に言う《髪結いの亭主》で、女房に食わせてもらったからじゃねんかなぁと思う。
そうして自分自身こだわれる蒟蒻創りを続け、凝固剤を極限までに減らせる秘訣を見つけたんだって。
それが《商品》として初めての【さしみこんにゃく】が世に出るきっかけになったんだ。

2009年6月

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